A Tale of Two Islands

東京大学法学部から英国のシェフィールド大学へ一年間交換留学。現地での思いを綴ります。関心は国際政治と東アジア。

アントワープの Red Star Line Museum

 

 少し遅れましたが、皆様あけましておめでとうございます!

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 年の瀬と新年の5日程はロンドンで過ごし、その後スイス(と一部フランスの山)、ベルギー、そして今はドイツを訪れています。ロンドンではお正月にふさわしく景気の良い日々*1を過ごしましたが、そのお正月気分も抜けないまま1月中旬まではヨーロッパ各国でかねがね気になっていた都市・街を気持ちの赴くままにゆっくり旅しようと思っています。

 ところで、先日訪れたベルギー第二の都市アントワープのRed Star Line Museumは、19・20世紀に中東欧から北米に移り住んだ人々に関する展示を行う博物館で、その展示は極めて充実しており、また昨今移民問題が世界的に取り上げられる中で過去の移民に関する経験を丁寧にまとめた当博物館は豊かな示唆に富んでいました。しかしながら、なぜか当博物館に関する日本語での情報はネット上に極めて少なく(というか恐らく皆無*2)、これはもったいないと思ったので、日本人来館者数が増えることを願いつつ*3、当博物館の概要、そしてその中で私が特に興味深いと感じた諸点に関して綴っていきたいと思います!

 

Red Star Line Museum

 ブリュッセル市街地から約一時間電車に乗ると、アントワープ中央駅*4に着きます。そこから徒歩20分圏内に、聖母大聖堂や、モード美術館*5ルーベンスの家などアントワープの有名な観光地がありますが、Red Star Line Museumは地図でも分かる通り市街地の北の外れに位置しており、少し歩かなくてはなりません。

 道中周辺は無機質な港湾施設*6が広がっており、冬の寒さ*7が身にしみました。

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 そんなこんなで、アントワープの市街地からバスと徒歩あわせておおよそ15分程度で、赤レンガ倉庫の外観が特徴的なRed Star Line Museumへとたどり着きます!

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 入場料は若者割引*8で6ユーロ、開館時間は10時〜17時です。月曜は基本的に閉館するようなのでご注意を。詳しくはホームページ参照。

 

展示の概要

 ところで、ベルギーのような多言語の国ならではだなあ*9、と感じたのは、入場時に英語での展示説明の翻訳ガイドを配布されたことです。主要な展示説明には英語やフランス語、オランダ語など多言語で説明が書かれていますが、細かい説明書きの部分はそのようにするわけにもいかず、オランダ語のみになってしまいます。そのような箇所の補足として、補助冊子が配られました。

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 展示の一番最初は、ALWAYS ON THE MOVEと題して、移民は人類の歴史とともにあったことを展示しています。すなわち、人類がオーストラリア大陸に到達した数万年前から、近年のシリア難民まで、人類は移動し続けてきたことを時系列の展示で示します。ただここの展示はおまけで、次の展示以降が本番です!次のブースからは、当博物館の名前となっているRed Star Line の歴史を、背景にある19世紀から20世紀の中東欧ユダヤ人を中心とした貧困層の生活状況を交えつつ展示を始めます。

 そもそもRed Star Lineとは、19世紀後半から戦間期にかけて、アントワープ(ないしイギリスのLiverpool, Southampton)とニューヨーク、フィラデルフィアなどの北米都市の間を結んでいた輸送船の名前です。ヨーロッパ大陸の人々がこの時期に北米に移民として移住しようとした際にこのRed Star Lineが使われ、アントワープヨーロッパ大陸側の人々にとっての北米移住の一大出発地でした。実際、今日博物館となっているこの赤レンガの建物は、かつて北米移住希望者が乗船前に健康診断を受けた施設で、ここで健康上の問題や感染病などが見つかると北米移住への切符は手に入らないという、移民にとって重要な関門だったようです。

 この健康チェックというプロセスからも分かる通り、当時の北米移住希望者は、特に19世紀の段階においては貧困層が多くを占めていました。アントワープの場所柄、そこに集まってくる移民の出身地はドイツやポーランド、ロシアがメインですが、それらの地域を追われる貧困層の中心をなしたのはユダヤ人です。展示では、これら中東欧地域の貧しいユダヤ人がどのような経緯でその地域を離れ、どのような経路をたどってアントワープの地までたどり着くのか、といういわば移住の前段階の展示を始めます。ポグロムの展示や移住者の肉声による体験談など、当時のユダヤ人の厳しい状況が生々しく描かれます。

 THE TRAIN JOURNEYという展示では、これら移住者が長い列車の旅を経てアントワープにたどり着く様子を描きます。パスポートチェックをくぐり抜ける違法な国境横断など、アントワープに着く前から彼らの長い旅はハードであったようです。

 さて、この様子だと日が暮れそうなので、ここから後はだいぶ端折ります笑。その後の展示では、移民たちのアントワープ滞在中の様子を展示し、次に彼らの乗船中の様子、最後に北米大陸到着後どのような生活を彼らが待っているのか、という展示をしつつ、終わりとなります。

 まとめると、当博物館では、19世紀後半から戦間期までの、ユダヤ系を中心とした貧しい中東欧系移民たちによる一連の移住劇を、彼らの移住の決意から、北米で待ち受ける移民生活までを順を追って展示するという形式になっています。この中でも特に、STAYING IN ANTWERP ないし LIFE ON BOARD の展示は示唆に富んでいたので、そこで感じたことを中心に所感で取り上げてみたいと思います。

 

所感

 STAYING IN ANTWERP  LIFE ON BOARDTHE AMERICAN DREAM、そしてANTWERP TODAYという展示箇所を回るにつれ、以下四点の展示が関心を引きました。

 

① 移民たちの大量流入と衛生環境の悪化は、アントワープに伝染病をもたらした。

Several deadly epidemics swept thorough Antwerp in the 19th century. The city was in full expansion and the residents lived very close to each other in poor hygienic circumstances.

 博物館の施設が健康診断の施設であったことからも分かる通り、アメリカ合衆国ないしカナダは、移民に対して厳格な健康上の条件を課しました。そのため、アントワープにたどり着いたものの北米に移住できないという人たちも当然存在し、その人達はアントワープに滞留することになります。この滞留した移民たちはアントワープの貧困街を形成、街の治安の悪化をもたらし、折からの健康問題とあわせて疫病の発生源となってしまいます。このような劣悪な環境を背景にアントワープは1892年までコレラの流行に悩まされ、現地の人々にとっても移民たちは必ずしも喜ばしい来客というわけではなかったようです(People started viewing emigrants who came from areas where cholera raged with fear and suspicion at the beginnig of the 20th century.)。

 

② 輸送船の中にも、大陸での社会格差はそのまま持ち込まれた。

An ocean steamer was a small contained world, with the same social divides as on land. 

  LIFE ON BOARD の展示では、ダンスや音楽、豪華な食器など、華やかな乗船を楽しむ一等旅客の様子の展示とともに、最貧困層の船旅がどのようなものであったかもあわせて展示しています。展示の中では次のような貧困移民の回顧録が記されていました。

It was not a pleasant trip. We spent the nights on sheetless bunks and most of the days standing in line for food that was ladled out to us as though we were cattle. 

 仕方のないことではありつつも、移民たちがヨーロッパ大陸で夢見た大西洋横断は、依然として過酷な旅であり続けました。

 

北米大陸到着後も、貧しい移民たちの生活は依然厳しかった。

But the American dream was difficult to achieve. The reality proved quite different compared with what they had been told to expect in Europe. [...] Many first-generation immigrants were unable to enjoy the fruits of their hard labour during their lifetime.  

 この点も特に目新しい知識ではありませんでしたが、一連の展示の中で、如何にして移民たちが貧しい東欧から脱出し、アントワープから船出し、厳しい乗船生活を耐え抜いてはるばる北米大陸に到着したのかを知った上でこの展示を見ると、何とも言えない虚しさ*10にとらわれてしまいます。。。

 

④ 今のアントワープの街にもたくさんの移民・外国人が住んでいる。

Today 170 nationalities  call Antwerp home. Some have been here for generations, others have only just arrived. 

 展示では、「今アントワープに住む外国人の声」の展示があり、それぞれの住人がどのような経緯でアントワープに住み、どのような生活を営んでいるかを紹介しています。

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所感

 さて、その中でも特に、①と④の展示は、昨今の移民・難民問題に関連して抱いていた「もやもや」*11を少し解消してくれる気付きを与えたように感じます。そのもやもやとは、ブリュッセルに限らず、ドイツなど、難民の受け入れに対して寛容な立場をとっている国やその人々の寛容さがどこから生まれるのか、というものでした。記憶に新しいベルリンのクリスマスマーケットで起きたテロの後でさえ、メルケル首相はあくまで難民受け入れに対する寛容な立場は崩さないとしているし、2016年3月にブリュッセルで連続爆破テロ事件が起きたことによってベルギーの難民政策が大きく変わったとは聞きません。話は逸れますが、アントワープからブリュッセルへの帰りの電車の中で、相席になった三人の方々は、ベルギー人女性とそのご主人の中国系カナダ人男性、そしてベルギー人女性の偶然顔見知りの「ムハンマド」という名のイスラーム系移民男性の三人でした。そのイスラーム系移民の男性は一言もフランス語*12を話すことができなかったようですが、終始そのベルギー人女性はムハンマドに対して好意的な態度で接します。このようにテロが連続して起きている中であっても、電車で相席になるような一般市民のレベルでさえ、移民に対する寛容な文化が根付いているというのは、大変に驚きでした。

 果たしてこれと同じような寛容さが日本で起こりうるのかと考えたら、たとえそれが東京であっても厳しいのではないでしょうか。日本との比較をしなくても、例えば自分の留学先であるイギリスでもここまで移民に対して寛容になりきれなかったからこそ、EU離脱という選択をかの国民は採ったのだろうと思います。ドイツやベルギーなど、難民の中に紛れこんだテロリストに自国民を大量に殺害され、それでもなお街に溢れかえる難民・移民に対する寛容さはどうして培われたのだろうか、このもやもやとした疑問に対する一つの答えの可能性として、この Red Star Line Museum は示唆的でした。

 結局、アントワープの街やそこに住む人々が、移民の中継港として経験してきた歴史・困難の蓄積は大きなものなのであって、そのように移民という存在が歴史の中で当然に存在し、そして19世紀に移民を通じたペストに苦しめられたように移民が伴う困難も経験してきた街と人々にとって、「難民の受け入れとそれに付随し得るテロ」という昨今の現象に遭遇した時にとる態度も、そのような経験を背景になされるのではないでしょうか。彼らの「寛容さ」の理解の困難には、もしかしたらこのような移民の受け入れの経験の有無にあるのだろうかな、という感想を、この博物館は与えてくれました*13

 

 長くなりましたが、 その他EU議会の展示や先程も少し触れたモード美術館、ブリュッセルマグリット美術館など、ベルギーでは多くの展示物を愉しみました!全ては紹介しきれないので、機会があればその折にでもお話できればと思います!

 

 平成29年も、健やかで実りに満ちた一年となりますように。

 今年一年も頑張ります!

 

*1:お察し笑。

*2:日本人にとって、アントワープは国民的アニメとも言える「フランダースの犬」最大のテーマである聖母大聖堂とルーベンスの絵画が存在する街として有名であり、その絶大な知名度の影にこの移民博物館は埋もれてしまっているのだろう。

*3:聖母大聖堂には日本語のパンフレットがあったがRed Star Line Museumにはもちろんなかった...というかそもそもRed Star Line Museum自体の邦訳すらままならない。以下そのままRed Star Line Museumとする。なおRed Star Lineとは何かについてはブログ本文参照。

*4:中央駅自体も立派で観光地となっている。

*5:ここもすごく良かった!次回は洗練された女性と語りながら見に行きたい。

*6:高校世界史でやった大航海時代アントウェルペンの繁栄が懐かしい。

*7:スイス留学勢と話していて気がついたのだが、イギリスの冬は大陸に比べて圧倒的に暖かい。実際今の時期はロンドンもシェフィールドも気温は東京程度だし、東京のように乾燥もしていない。一方の大陸は氷点下も常である。北大西洋海流と偏西風ありがたすぎる。

*8:ヨーロッパはどこの国もYouth割引が極めて充実している。少子化問題とつなげるわけではないけれど、日本ももっと充実させてくれても良いのではと。

*9:ちなみにブリュッセルのEU議会の展示にはもはや説明書きは付されず、配布されたiphoneのような機具を展示の写真にかざすと自分が使用するEU公用語(この場合英語)での説明が画面に表示されるという変わったシステムだった。これはEU加盟国の全ての言語話者が等しくEU機関にアクセスできるように、というEUの理念に基づく処置のようである。

*10:一応展示の最後には、第一世代以降はアメリカ合衆国の繁栄を享受するようになり、今のアメリカの繁栄も彼らの努力のおかげにある的なことが書いてあった。ここで少し疑問に思ったのは、今の米国の社会階層は、当時19世紀後半から20世紀初頭にかけての社会階層の序列からどれくらいシャッフルされているのだろうかということ。なんだかあまり変わっていなさそうな気もする。果たして本当に貧困層移民の子孫が将来的にそれらの繁栄から利することができるようになったたのかは気になるところ。

*11:「難民問題」などと言っていますが、ニュースなどで得られるような表面的な知識以上のものを持ち合わせていません。移民や難民に関して体系的な考察を行った本に本格的に触れた事があるわけでもないので、もしかしたら至極当然のことを言っていたり、あるいは見当外れなことを言っているかもしれません。なんだか旅行飽きてきて早く勉強しなければという焦りを感じる。。。笑

*12:ベルギーは自分の予想していた以上にフランス語が強かった。ブリュッセルは完全にフランス語圏である。

*13:書いていて色々な反論が自分の中で出てきたので、覚え書き程度に一応言及しておこうかと。ブログを書く中で、当初「発見した!」と思ったことを冷めた目で再検討し、「実は間違ってるのでは... ?」と考えるのはとても教育的作業だけど、興ざめ感半端ないので頑張って擁護したい。けれども、本当にテキトーなのでできればあまり読んで欲しくない、、、
1. アメリカ合衆国の歴史はまさに移民の受け入れの歴史そのものだけれども、トランプを大統領に選ぶその国が果たして経験に裏打ちされた寛容さを持ち合わせているのだろうか?
→移民を受け入れる側もまた移民であるという点でヨーロッパ大陸と区別できそう。
2. ベルギーは良いとして、難民政策で最も寛容とされるドイツはむしろ歴史的には移民の発生源だった国では?それでもこの経験と寛容の関係は当てはまるのか?
→ドイツ国内に歴史的に多く存在した「ユダヤ人」を、長い歴史の中でゲットーに集住させ、ドイツ人と同一化させなかったという点では、移民たるユダヤ人を移民として扱い続けたとも言えるから、ユダヤ人との関係におけるドイツ人の歴史の経験が、ドイツ人にとっての移民に対する経験として理解することができなくもない?

天気と英語と雑感

今学期の後半は畳み掛けるように日常が過ぎていき、早いものでもう留学から三ヶ月が経ちました!

先日の最後の講義で今学期受けた講義も全て終わり、一緒に勉強したこの人達と今後会うことも少ないのだろうなと思うと少しさびしい気持ちになります。本当は今学期の総括的な投稿をしたかったのですが、エッセイやら飲み会やら旅行準備やらでバタバタしたのでまた落ち着いたときに整理し*1、今回はとりとめもなく思いついたことを三点程書きます。天気と英語とエッセイの雑感です。

 

天気と英語

先日、東京で54年ぶりの降雪が11月に観測されたとのニュースで日本が盛り上がっていましたが、その頃のシェフィールドも雪は降らないものの風と雨で体感的には極めて寒く感じられました。最高気温7度、最低気温3度前後といったところでしょうか。ちょうどイギリスに来た頃、BBCが今年は長くて寒い冬が訪れそう、といったニュースが配信されていたのを思い出します*2。ちょうどその頃(11月末)からエッセイ期間に入り始め、寒さとエッセイで人々は篭りがちのように見え、講義やゼミに行っても1/3程度がサボっているという状況でした。日本以外の国の大学生は真面目だって言ってた人だれだ。

折角これだけ寒いのだから雪が降れば良いのに*3、とは思うものの、とにかくイギリスの気候の良くない部分は冬に集結するらしい。

ただ一方で、イギリスに来たばかりの9月10月は、(今年の東京の夏が曇りの多かったこととも相まって)聞いていたほど天気が悪いわけでもなく普通に晴れてるやん、とある意味期待を裏切られたように感じていたので、ここにきて漸く悪天候*4で有名なイギリスに来たという実感が湧いてきたという解釈ができないわけでないです。

 

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晴れた日の大学近くの公園。早朝の装いだが真昼の12時43分に撮影した。

 

天気という困難な話題ついでにもう一つ困難な話をしておくと、留学から三ヶ月、講義一学期分が終わったというのにも関わらず、自分が想像していた英語の伸びからは程遠いということも、天気と並んで悩みの一つ*5です。当たり前ではあるけれど受動的では全く成長しないし、日本で勉強していたように地道に自学しないといけないと痛感しています(が、サボってしまっていて人は変わらない)。

 

ふと思ったこと

 

ちょうど先週と今週にかけては、「東アジアの歴史と記憶」という講義のエッセイを書いておりました。日本の戦時下における知識人たちの"life narrative"が、回顧録(memoir)、オーラル・ヒストリー、そして史料・文献・著作から紐解く"life narrative"の三つのタイプでどのような戦時下の記述の差が見られるか、というテーマで大慌てで書いたのですが、その中で苅部直丸山眞男』(岩波新書*6と、小熊英二『生きて帰ってきた男』(同)*7の二冊を同時に読むにつれ、昨今の時勢を鑑みるに非常に興味深い感想を抱きました。

苅部は当該新書において、1930年代後半から40年代前半にかけて、日本国内の自由主義が、明治初期の近代化の歩みと比べて大幅に後退してしまっている事実に丸山が絶望し、近代意識の成長を押さえ込む日本社会の病理を戦中期の諸論文を通じて描こうとした軌跡を記しています。その中で苅部は、熱狂的に國體を信じる一般大衆・マスメディアが圧倒的に社会に蔓延し、近代国家の制度観を認識する知識人がその中で孤立するという実感を抱く丸山を描きます。この見方によれば、國體を信じる一般大衆と、近代を信じる大学人という二分法が浮かび上がってきそうです。しかし、この見方に対し、小熊の新書を読むと少し違った印象を抱きます。当時の人々は上から言われるままに生活を戦争体制へと変更していったものの、「上のほうはいろいろ言ってくるが、下へ行くほど冷めていた」(Kindle版、位置No.465)という回想にあるように、思想的な浸透には至っていなかったように思われます。地下鉄半蔵門駅に到着すると、車掌が「ただいま宮城前でございます」というアナウンスをしても、1940年当初はみんなお辞儀していたのが、段々と形式的なことに飽々として誰もお辞儀などしなくなっていったというのも、一般大衆の「実態」のように思われます。このように見ると、上記の丸山の二分法は、正確には、近代化が前進しようと後退しようと日々の生活で精一杯な一般大衆と、それに対して一人近代化の後退を訴える知識人という分け方のほうが正しかったように思われます。そしてそのような忙しい一般大衆の中にも、国家の軍事体制化に冷めた態度を持つ人もいれば、肯定的に捉える人もいるという、よりグラデーションがあったのではないかというのが、小熊の著作を読んだ感想です。

 

昨今のpost-truthと呼ばれる諸現象を語る際、知識人と一般大衆の二分法で捉える議論が多く見られます。しかし、そこで一般大衆と区分した人たちが、果たして本当に一枚岩的なのか、果たして「知識人」の側のイメージと一致しているのかは、苅部と小熊の著作の比較から見られるように注意が必要であるように思います。「反知性主義」や「ポピュリズム」など、知識人の側からの一方的かつ一枚岩的なイメージの当てはめを全面的に支持することに関しては、少なからず躊躇いを持たなくてはならないという発見を得た二冊でした。

 

今回の投稿も極めて一貫性に欠けるものとなってしまいましたが次回は余裕を持って更新するよう努めます。

ところで今から大学のサークル活動的なものでフランスにスキーしに行きます!本物のアルプスでスキーをするのは小さい頃からの夢でしたがこんなにも早くその夢が実現するとは思わなかった!

 

 

*1:それ整理せーへんやつやん、って言われそう

*2:イギリス人のクラスメイト曰く、毎年のようにBBCは今年は寒くなると報じているとのこと。

*3:別のクラスメイト曰く、雪が降ったら降ったで、今度は路面が雪に十分に対応していなかったり、あるいは不十分な公共システムのせいで路面の凍結による事故が多発してしまい、イギリスで雪が降ると危険きわまりないとのこと。やれやれですは。

*4:悪天候に加えて16時には夜のような暗さになるという日照時間もまた、イギリスの冬を悪名高いものにさせるようです。日本でも噂では聞いていたけれど、実際10時に起きたら残りの「日中」は5時間半程度しかないのでなかなかに寂しい。ちなみにこんな商品も。

*5:その他に留学の赤裸々な困難を書くとすると、寮生活も今学期後半の困難の一つでした。自炊生活や一人暮らし自体は慣れて楽しいものの、新入生が多い寮に入ったため新入生ならではの活気があり、元気なのはいいけれどキプロス人のフラットメイトが夜中3時に酔っ払って大声でフラット中の壁を叩き出したときには本当にやれやれといった気持ちでした。

*6:熱狂的丸山信者と氾濫する丸山批判の両方を退け、「本人と問答するように」(pp.15)彼の思想の軌跡を描こうとした。日本から持ってきた本にたまたままぎれていたのでエッセイに使いました笑)。以下苅部さんの敬称略。

*7:有名な本だけど読んだことなかった。小熊さんのお父さんの戦中・戦後体験を、オーラル・ヒストリーの手法を通じて整理した著作kindle神。以下敬称略。

Jeremy Corbynへのいたずら?

 先週末、コペンハーゲン大学*1に留学中の友人が英国に来るということで、同じく英国に留学中の同級生の友人たちと一緒に四人でロンドン観光を楽しみました!その際、ビッグベンで有名な英国の国会議事堂を内部見学したのですが、その中でやや興味深い写真を見つけました!
 その写真の(やや強引な)解釈の説明でもって、最近の留学生活で学んでいること・考える事の整理に代えたいと思います。

 

観光客のごみ

 国会議事堂の内部見学はとても充実していて、庶民院貴族院のホンモノの議場の見学も可能です*2庶民院の入り口にはチャーチルサッチャーなどの銅像が君臨していてなかなか格好良いのですが、銅像のすぐそばに現役の議員への手紙入れのような木箱があって*3、ある議員の引き出しにだけ、紙くずのようなごみが入っていました。観光客が入れたと思われるのですが。。。

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 紙くずを入れられた木箱の持ち主の名は、現在の労働党党首であるJeremy Corbyn。彼はちょうど先月末に労働党党首選で再選を果たしたのですが、彼の再選はこちらではBrexitと同じくらい話題に尽きないテーマとして扱われています。そしてこのウェストミンスターの観光地で発見した紙くずのいたずらは、僕にとってこの労働党党首に対する反発として映ったのでした。

 講義など*4を通じて英国の議会政治の動向を知るにつれ、この国の議会政治はとても不思議で違和感に溢れたものとして映ります(日本政治の常識や経験から逸脱したものが多い)。しかし同時に、現代の英国政治の諸問題は、今日の我が国を含めた多くの民主主義国における議会・政党に関する諸問題を痛烈に映しだしているようにも感じます。この不思議な英国政治の今日的諸問題と、そこから翻って立ち現れるより一般的な議会政治に関する所感について、このいたずらの写真を出発点として(講義の復習も兼ねて)書き連ねていきたいと思います!

(ちなみに議員の名前の横に貼られているカラーシールは所属政党を示しています。Jeremy Corbynの名前の横にある橙色は労働党、大量にある水色は第一党の保守党、そして紫色はスコットランド国民党、SNPです。SNPは台頭するスコットランド民族主義を背景に、2015年の総選挙で大勝し、現在は第三勢力の地位を占めています。)

 

Should the Labour Party Split?

  Jeremy Corbynを巡る労働党の問題は、端的に「彼の政策が、労働党所属の庶民院議員の目指す方向性とズレていること」に集約されます。そもそも労働党の起源は複数の社会主義政党労働組合の複合体であり、中でも組織票と資金力を持つ労働組合労働党の方向性に対して与える影響力は極めて大きなものがありました。労働組合主導の左派的な経済政策に時代錯誤を感じたブレア政権による「New Labour」の改革によって労働党は支持層を拡大させたものの、それは逆に保守党との明確な党是の違いを打ち出すことができなくなることを意味するものでもありました(法学部の政治学の講義で扱った「ヴァレンスイシューモデル」)。結果、ブレア*5・ブラウン両政権以降は保守党との違いを明確に打ち出せず、保守党に与党の座を譲る事になります。

 そのような経緯の中で登場したJeremy Corbynは、労働党がその独自性を失う中、労働党支持者に明確な労働党像を提示したことで支持を獲得したと言われます。すなわち、公共支出の拡大や反戦など、かつての労働組合を中心とした「最左派」的な政策を打ち出し、さらに草の根の支持拡大活動を行って党員の支持を広げていきました。

 その結果、ブレア、ブラウンといった二人の元首相や、大部分の労働党議員がJeremy Corbynの指導力に疑問を抱き、労働党議員から信頼を得られていないにも関わらず、議会の外の労働党員の支持*6によって、Jeremy Corbynは先月末に党首として再選を果たしたのでした。

 このように、New Labourとして急進的な政策を改め、政権を担うことのできる野党として労働党を発展させたいと考える労働党議員と、New Labour以前の伝統的な左派政党として労働党を支持する議会外の草の根的な党員との間には、労働党の目指すべき方向性に大きな乖離が生まれてしまっているというのが労働党の現状と言えるでしょう。 

 労働党はその内部において大きな政策上の矛盾を抱えており、Jeremy Corbyn党首と労働党議員の間の確執が続く以上、労働党は分裂して内部矛盾を解消するべきなのではないかというのが、その次に出てくる議論です。実際、今年の6月末に出された労働党議員による労働党党首に対する不信任動議は賛成172反対40の大差で可決しており、その時点でJeremy Corbyn率いるShadow Cabinet(影の内閣*7)は、多数の労働党議員のShadow Cabinetからの辞任によって崩壊状態にありました。党首が党の議員から信頼を得られていない状態で、野党第一党としての議会運営が困難になるのは想像に容易いです。

www.bbc.co.uk

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 (写真はDebating SocietyのPublic Debatesの様子。Should the Labour Party Split?のテーマで議論がなされた。)

 自分がこのShould the Labour Party Split?という議論をこちらに来て耳にしたときには、絶対に分裂するべきではない、という意見を真先に抱きました。近年スコットランドなどへの権力移譲(devolution)や最高裁の設立(最高裁の設立が2005年の法改正によって決まるまでは、上院が司法の権限を握っていた)が進んだことによって「議会主権」が弱まってきているとは言え、依然英国はその他の先進諸国よりも議会に権力が集中していると言えるし、そのようなシステムの中で第一党である保守党が強くなりすぎて他の政党が対抗できなくなるのは、権力の対抗関係がいびつになるように感じたから、というのが大きな理由でした。今でもこの意見は変わらないのですが、一方でJeremy Corbynが党首でいる間は労働党が政権を奪還できないだろうというメディアなどの見解を聞くに連れ現状のままでは明らかにまずいとも感じます。もしもBrexitを進める保守党が何らかの過ちを犯した際に、責任を追求する事のできる強い政党が不在である現状はあまりにも覚束ない。

 

国民の政党不信

  このようにJeremy Corbynを巡る労働党の現状について見てきましたが、しかしJeremy Corbynが行う「草の根」の政治活動は一方で、国民の政治への関与を促し、政党不信や政治家不信を払拭するものとして期待されている方策でもあります。というのも、現代における政治問題は極めて高度化し、政策における争点に関して、国民の側からも、そして政党の側からも、それぞれが遠ざかっている現象が、国民の政党不信、ひいては政治不信を巻き起こしているのだという議論がこの国においてもあります。この議論は全く日本と同じでとても親しみやすい。

 そしてこの国民の政治不信によって引き起こされる問題として、一点目として政治への不参加(投票率の低下、支持政党の不在など)が挙げられ、二点目としてより簡単な争点への傾倒(地域政党への支持やナショナリズムを煽る極右政党への支持など)が起きてしまいます。この二点も英国に限らず、日本など多くの先進諸国で共通の課題であるかと思うのですが、特に興味深い現象として、二大政党に投票された票の割合が年々低下している点が挙げられます。英国の庶民院議員は小選挙区制のみで選出されるため、二大政党制の議席が実際の獲得票数よりも誇張されるのは明らかではあるのですが、その誇張の歪みは戦後一貫して拡大傾向にあると言えそうです。

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 (画像は講義スライドより引用。水色が議席のシェアで、こちらは安定している一方、ピンク色の獲得票の割合は90年代以降ほぼ下降傾向にある。)

 この歪みの差分はすなわち、死票となってしまった他の政党への支持であるといえるのですが、ここで比較すると面白いのが、英国における欧州議会議員選挙の結果です。欧州議会議員選挙はEU加盟国に割り当てられた議席数を、比例代表制によって選出することになっているのですが、最新の2014年の英国の欧州議会議員選挙で最大の票を獲得し第一党となったのが、保守党でも労働党でもなく、極右政党であるUKIPイギリス独立党)だったのです!

 もちろん、庶民院の総選挙と欧州議会の総選挙で争点領域は大きく異るし、BrexitでLeaveを選択した事も考えると当然と言えば当然ではあるものの、国民が伝統的な二大政党から離れ、UKIPやSNP*8など「わかりやすい」トピックを争点化しポピュリズムを煽る政党に流れてしまう現象は、国民の政党不信や政治不信の一つの帰結のあり方であるように感じます。

 それならば、むしろ伝統的な二大政党もまた、国民との距離を近め、政策上の争点を大衆化することなく、党組織の透明化やSNSの活用などによって国民の政治への距離を少しずつ近づけていくことが求められていると言えます。実際オバマ大統領の大統領選の戦い方などは勃興するSNSを上手に使った選挙として語られることもあります。

 そのような文脈の中であっても、Jeremy Corbynの支持の獲得の仕方は、争点の大衆化を行い左のポピュリストとして勝利したという見方の方が妥当ではあると思いますが、このようなJeremy Corbynの戦い方をただ「ポピュリストだ」といって忌避するだけでは、伝統的な政党がたとえ争点を高度化して戦ったとしても、大衆に迎合した政治家に負けてそれで終わり*9なのではないでしょうか。それよりは、争点の大衆化に陥らないよう留意しつつ、国民との距離を近づける努力を保守党やNew Labourなど伝統的政党や政治家は求められているのではないだろうかと思います。

 この議論から翻って我が国の政治を見てみると、分裂する労働党の姿は、一枚岩になりきれない民進党を見るようではあるものの、市民との距離を近づけることによって議席を獲得するという手法に関しては橋下徹小池百合子など地方自治体における選挙の域を超えないように思います。ただ、そうではあっても排外的ナショナリズムの勃興の影は現代日本において明らかに見られるし、自民党民進党が国民との距離を近づけることに成功していないようにも思います。安倍総理の「マリオ」芸などはその点で面白いしうまいやり方であると言えそうです*10。いずれにせよ、英国議会政治の混迷を記憶していくことの意義はたとえ日本人においても失われないように思います。日本政治の講義でも日本の議院内閣制と英国の議院内閣制は頻繁に比較されていたし。

 

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 やや固い内容かつ取り留めのない間延びした記事になってしまったので、最後にクリスマス衣装したハロッズの熊の写真でも。冬はすぐそこです。

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*1:東大留学界隈ではコペンハーゲン大学をコペ大と称するらしい

*2:議会が開催される日は二階の傍聴席からガラス越しに見ることができるらしい

*3:木箱の実態はちょっと確認しそこねました、手紙入れかは自信ないです🙇。全く関係ないけれどもMP(議員、Member of Parliamnet)に陳情できるサイトがあった。

*4:こちらでは、①英国の国家社会関係、②中国の台頭、③東アジアの歴史と記憶の三つの講義を前期に履修しています。各講義にlectureとseminarが一コマずつあり、時間的拘束はないものの英語力の不足と論文の量があってなかなかしんどいです。。。一回もゼミで発言できない日などは特に悲しい。

*5:ブレアは依然人気が強いようで、現状の労働党の迷走を食い止めるために政界復帰するという見方も。

*6:これを左のポピュリスト、という人も。

*7:与党の内閣に議会で対抗するために、野党が影の大臣などを選出し議会で与党が組織する内閣と議論を戦わせる。

*8:本ブログの最初の方で登場。

*9:うまく大衆を味方につけたBrexitにおけるボリス・ジョンソンなどがその好例。今は下火だけれどトランプも。

*10:彼の場合、自民党内での極度の権力集中や、国会での対抗権力の不在などによってやや不信感を払拭できていない気もしますが。

はじめの数日

漸く飲み会もなく一息つけたのでここ数日間の生活と雑感をまとめます。

 

出国から今まで

14日:夕刻にヒースロー空港着、ロンドン泊

15日:お昼にロンドン発、長距離バス(Coach)でシェフィールドへ

16日:オリエンテーション

17日:寮に移動、買い物など

18日:買い物など

19日:諸手続き

 

寮生活

 6人分の個室が並んでいて、廊下の奥に共同で使うキッチンが一つあるというシステムです。キッチンはIH仕様で、冷蔵庫も二つあり、個室も大変広いので、聞いていたとおり快適そのものです。シャワーの水圧が弱い点だけが欠点か。

 6人のメンバーは、南アフリカ出身で国籍はオーストリア(親がオーストリア人)だがイギリスの高校に通っていたというほとんどイギリス人みたいな子が一人と、キプロスのイケメンが二人、インド人が一人、UAE在住で国籍はインドの子が一人という面持ちです。

 オーストリア人の彼は実質的にイギリス人と同じ風貌ですが、一応外国籍の人間で集められたみたいです。

 オーストリア人の彼は極めて優しい青年で、イギリスの夜の遊び方を教えてくれたり、買い物に付き合ってくれたり、素敵な彼女を紹介してくれたりと部屋の中心的な人物です。

 キプロス人の二人はいかにも地中海の人間と言った感じ。例えば一緒に歩いていると、途中でキプロス人やギリシア人とすれ違った途端に5分ほどギリシア語で立ち話をし始めるので、彼らと一緒にお買い物に行くと日が暮れます。加えて可愛らしい女の子とすれ違うと、お世辞にもうまいとは言えない英語でナンパし始めます。さすが地中海の男たち。ギリシャ危機の理由の一端を見た気がします。
 *高校地理で学んだようにキプロスはギリシア系とトルコ系で南北に分断された分断国家で、二人はともにギリシア系のキプロスです。トルコのことはとても嫌い。

 インド人ですが、UAEから来た方はともかく、彼らの英語は極めて聞き取りづらく、正直彼らが言ってることの三分の一も理解できていないです。どうもRの発音を常に「ル」と発音していることと、鼻が詰まったような喋り方に原因があるような気がするのですが、つらいのはイギリス人はインド人の英語をしっかり理解しているので、明らかに落ち度は自分の方にあるということです、つら。。。
 ただインド人の生態はかなり異文化なので一緒に生活しているととても面白い。晩御飯を作るのに9種類のスパイスを使い始めるだけでなく(結構美味しかった)、ベジタリアンだったり(卵も食べない)、酒はいっさい飲まなかったり、「来週の何曜日に待ち合わせね」とは言わずに「来週の何日に待ち合わせね」と言ったり(数字に強いからだろうかというテキトーな考察)、急にヒンドゥーのお寺に礼拝に行ってくると言ったりするなど。
 ちなみに菜食主義と禁酒に関して、彼らは宗教的な理由よりかは個人的な好みによるところが大きいと言っているけれども、本当のところはよくわからないです。

 

シェフィールドについて

 まだ市街地周辺と寮のある大学東側エリアしか探索していないので、大学西側エリアに早く行ってみたいところです。なんとなく市街地から遠い西側の方が標高が高く町の雰囲気も良さそう。

 市街地周辺を見る限り、日本の中都市の都心部と似たような感じです。トラム(路面電車)が走っていて、坂道も多い点は素敵ですが、街自体は特に豊かなわけではなく、かといって古くからの都市というわけでもないので重厚な雰囲気もないので、都市自体はたいしたものではありません。西側の自然豊かなエリアに期待。

写真は寮周辺の様子。イギリス全体として、信号の過不足が多すぎる気がする。 

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買い物関連

 留学前にイギリスのスーパーの格付けに関して少し調べておりました。予習の段階での認識では、イギリスは値段と品質が比例する、という前提のもと、

WaitroseとMarks and Spencerの二つが高級店、TescoとSainsburyの二つが中流、ASDAとMorrisonsが安い

という格付けの理解でおりました。

 しかしながら、実際にMarks and SpencerとTescoとSainsburyに行ってみたところ、たしかにお惣菜系は高級店の方が良いものを取り扱っている印象はあったものの、生鮮食品、特に肉類に関しては大して変わりはないように思います。ほぼイギリス人のオーストリア人の彼も、値段と品質が必ずしも比例するわけではないと言っていました。Marks and Spencerの高級食材に関心を示す僕になかば呆れていたし、、

 成城石井でお肉を買わないと不味い、というわけでは決してないのと同じなのかもしれません。あまり気にしすぎない方がよいかも。

 ちなみにイギリスでは牛乳がとても安いです。日本の半額くらいの印象。

 

夜の生活について 

 この時期だけなのかは不明ですが学生の多くは毎晩のように飲みに出かけます。飲みに行く場所は概ね三種類あり、Pub、Bar、Clubの三つに大別できるように思います。現地の学生が言うには、この順番に年齢層は下がっていき、またはっちゃけ度合いもこの順番で上がっていくと言っておりました。

 まず、Pubに関してはいわばビリヤードなどがおいてあるような飲み屋で、音楽は控えめで人々は会話を楽しんだりビリヤードを興じたり煙草を吹かしていたりします。また年齢層も父親世代の人が多い印象。

 Barは日本でもよく見るような形態で、音楽はそこそこ大きいが会話ができない程ではなく、またダンスをする人はあまりおらず立ちながらグループで談笑する人が密集している風景が見られます。ちょうどPubとClubの中間といえるような存在であり、年齢層もこなれた大学生から30歳前後の人が多い印象です。

 Clubはどちらかと言うと浮足立った若い大学生が集まっている感じで、実際この時期は新入生でいっぱいです。耳をつんざくような音楽が場を支配し、それに身を任せて酔った学生たちが踊りまくる感じ。本能に身を任せていれば英語がよくわからなくても許されるので外国人の僕にとってはむしろこちらの方がラクかもしれない。

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 イギリス人といえどもみんながみんなお酒に強いというわけではなく、そこは安心です。また夜の3時にクラブ会場を出ても街は治安が悪いというわけではなく、むしろ飲み歩いている大学生をちらほら見かけるのでその点は地方都市の魅力と言えるかもしれません。

 

なんだか遊んでばかりでお前は何をしに留学に行ったんだといった内容となってしまったので、次回のブログではもっと実りある内容を書けるよう努めます。。。

目的と目標

折角一年間かけて行くのだから、実り多き留学としたいものです。そこで、出発前の初々しい志を、いまいちど言葉にしておこうと思います。

 

留学の目的?

交換留学の申請や、奨学金(トビタテ!留学)の手続きの中で、何度もこの「留学の目的」を言語化する機会はありましたが、そのどれもが、正直なところ、自分の心の底からの目的にドンピシャだったわけではありません。もちろんそれぞれの申請の中で書いたことに偽りはないし、そこで書いた目的・目標を念頭におきつつ留学することに変わりはないのですが(そして交換留学や奨学金の機会を与えていただいたことに感謝していることは言うまでもありません)、どこか心のなかで、申請の過程で言語化した高尚な目的を上回っている「何か」が、本当の目的としてあるのになあ、という後ろめたさがあったことは否定できません。

あこがれ

いろいろと考えたけれど、結局のところ、僕を留学に駆り立てたものは、ぼんやりとした「あこがれ」だったのではないかなと思います。

それはきっと、西洋への「あこがれ」(東洋への関心はAFPLAでの活動や旅行などである程度満たされていた)というベタベタにベタなものから、一人暮らしへのあこがれ、海外の大学での勉強へのあこがれ、そしてなにより「より広い世界を見たい」というある種の野心からくる衝動的な何かが、抽象的に交じり合って、ゆるりゆるりと僕の背中を押してくれていたのだと思います。

そしてこのゆるりゆるりとした抽象的なあこがれは、高校生の頃くらいから少しづつ始まっいてて(最も古い「あこがれ」の記憶は、小学校の頃見た『不機嫌なジーン』というドラマで竹内結子がロンドンのタクシーに乗っているシーンを見た時かも)、そして大学二年には留学の準備に何らの迷いもないくらいには積極的なものに結実していた。

 

しかしここで、留学の目的が全てこのような積極的なところから来たわけではないのだということも述べなければなりません。

四年で卒業したくない、という思いもまた、高尚ではないけれども確実に重要な要素でした。早生まれの現役で大学に入学し、卒業する頃に漸く22歳を迎え、そしてすぐに社会人となってしまう慌ただしさに辟易としてしまったこと。そして卒業を遅らせることに対して経済的にも精神的にも何らの不満も言及しなかった家族の後押しもあり、消極的な意味でも、のんびりと一年間過ごすチャンスは今しかないと感じるようになった。このことは、留学を決める上で大きな要因であったことに違いはありません。

 

留学を通じて得たいこと

あこがれや大学生活の延長などといったものが言語化できない留学の目的なのだとしたら、留学を通じて得たい目標のようなものは大して必要がないようですが、それでもやはり折角一年間かけて、奨学金も戴いて行くのだから、ある程度目標を明確にしてから行きたいと思います。そこで、留学を通じて行いたいこと、成し遂げたいことをさしあたり三点ほど以下に記します。

 

・現地の友人を持つ

 10年後、英国を訪れた際にまた会えるような友人を作りたい。大学に入ってから、大変に友人知人に恵まれました。英国でも良い人間関係が築けますように。烏滸がましくも望むらくは、現地の教授などの社会人の方とも交友を広げたいです。

 

・日本での環境や肩書から自律する

 優秀な友人、心優しい友人、暖かい家族が住まう、豊かな人的資本・社会資本に富んだ東京という地において、日本で最も恵まれた学問環境に学び、しかもそれがブランドという形で独り歩きしてしまう、そんな環境で大学生活を生きた自分にとって、今の僕自身から人の助け、社会の支え、学歴の独り歩きを全て剥ぎ取ったら、一体何が残るのだろう。何も残らないのではないか、そんな不安があります。留学を経て、自信を持って上記のような外的環境から自律してなお自らが誇れるところを紹介できるようになりたいです。

 

・精神的に強くなる

 高校の頃から僕を知っている人は笑うかもしれません。思い返せば、幾度か精神的に自ら大人になったな、と思うタイミングがあります。きっとこの留学の中で、そのようなタイミングが何度かあることかと思いますが、その時は思い切り悩み、向上心を持ちつつも、なお他者に対して寛容な人間になりたいと思います。

*精神性の向上とは関係がないのですが、一人暮らしスキルもあげたいです。自炊など。

 

本来は、「イギリス外交において議会が果たした役割について学ぶ」などを目標に書くことがお手本なのかもしれませんがそれらは奨学金での報告書に譲るとして、等身大の留学への期待を書くことにも意味があるでしょう。

思い出したら書き加えるかもしれません。また、出発前に予期していなかったような発見、成果もきっとあるはずです。そしてそういった予期せず得る何かのほうが結果としてより有意義だったということは往々にしてあるものです。しかしそれらの発見は後日の報告に譲るとしましょう。

 

ブログについて

ブログを書くことに怠慢にならないためにも、そして仮に書き続けられたとしてその書き始めの初心を忘れないためにも、このブログに託す思いを、留学前の初々しい心持ちでもってここに記します。

 

ブログの目的は以下三点、

・漫然と日常を過ごしすぎないよう、自分を律するためのペースメーカーとして

・自分のなかでの発見・思考の整理

・友人知人から日常のフィードバックを得るため(facebookの代わり)

 

内容としては、

・英国に関係したもの

・留学に関係したもの

・現地で出会った人について

・自分自身について

の四点を意識しようと思います。逸脱するかもしれないけれど、現時点ではこれら四点で進めてみようと思います。

 

このブログが、留学を少しでも実り多きものにするための一助となりますように!