A Tale of Two Islands

東京大学法学部から英国のシェフィールド大学へ一年間交換留学。現地での思いを綴ります。関心は国際政治と東アジア。

アントワープの Red Star Line Museum

 

 少し遅れましたが、皆様あけましておめでとうございます!

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 年の瀬と新年の5日程はロンドンで過ごし、その後スイス(と一部フランスの山)、ベルギー、そして今はドイツを訪れています。ロンドンではお正月にふさわしく景気の良い日々*1を過ごしましたが、そのお正月気分も抜けないまま1月中旬まではヨーロッパ各国でかねがね気になっていた都市・街を気持ちの赴くままにゆっくり旅しようと思っています。

 ところで、先日訪れたベルギー第二の都市アントワープのRed Star Line Museumは、19・20世紀に中東欧から北米に移り住んだ人々に関する展示を行う博物館で、その展示は極めて充実しており、また昨今移民問題が世界的に取り上げられる中で過去の移民に関する経験を丁寧にまとめた当博物館は豊かな示唆に富んでいました。しかしながら、なぜか当博物館に関する日本語での情報はネット上に極めて少なく(というか恐らく皆無*2)、これはもったいないと思ったので、日本人来館者数が増えることを願いつつ*3、当博物館の概要、そしてその中で私が特に興味深いと感じた諸点に関して綴っていきたいと思います!

 

Red Star Line Museum

 ブリュッセル市街地から約一時間電車に乗ると、アントワープ中央駅*4に着きます。そこから徒歩20分圏内に、聖母大聖堂や、モード美術館*5ルーベンスの家などアントワープの有名な観光地がありますが、Red Star Line Museumは地図でも分かる通り市街地の北の外れに位置しており、少し歩かなくてはなりません。

 道中周辺は無機質な港湾施設*6が広がっており、冬の寒さ*7が身にしみました。

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 そんなこんなで、アントワープの市街地からバスと徒歩あわせておおよそ15分程度で、赤レンガ倉庫の外観が特徴的なRed Star Line Museumへとたどり着きます!

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 入場料は若者割引*8で6ユーロ、開館時間は10時〜17時です。月曜は基本的に閉館するようなのでご注意を。詳しくはホームページ参照。

 

展示の概要

 ところで、ベルギーのような多言語の国ならではだなあ*9、と感じたのは、入場時に英語での展示説明の翻訳ガイドを配布されたことです。主要な展示説明には英語やフランス語、オランダ語など多言語で説明が書かれていますが、細かい説明書きの部分はそのようにするわけにもいかず、オランダ語のみになってしまいます。そのような箇所の補足として、補助冊子が配られました。

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 展示の一番最初は、ALWAYS ON THE MOVEと題して、移民は人類の歴史とともにあったことを展示しています。すなわち、人類がオーストラリア大陸に到達した数万年前から、近年のシリア難民まで、人類は移動し続けてきたことを時系列の展示で示します。ただここの展示はおまけで、次の展示以降が本番です!次のブースからは、当博物館の名前となっているRed Star Line の歴史を、背景にある19世紀から20世紀の中東欧ユダヤ人を中心とした貧困層の生活状況を交えつつ展示を始めます。

 そもそもRed Star Lineとは、19世紀後半から戦間期にかけて、アントワープ(ないしイギリスのLiverpool, Southampton)とニューヨーク、フィラデルフィアなどの北米都市の間を結んでいた輸送船の名前です。ヨーロッパ大陸の人々がこの時期に北米に移民として移住しようとした際にこのRed Star Lineが使われ、アントワープヨーロッパ大陸側の人々にとっての北米移住の一大出発地でした。実際、今日博物館となっているこの赤レンガの建物は、かつて北米移住希望者が乗船前に健康診断を受けた施設で、ここで健康上の問題や感染病などが見つかると北米移住への切符は手に入らないという、移民にとって重要な関門だったようです。

 この健康チェックというプロセスからも分かる通り、当時の北米移住希望者は、特に19世紀の段階においては貧困層が多くを占めていました。アントワープの場所柄、そこに集まってくる移民の出身地はドイツやポーランド、ロシアがメインですが、それらの地域を追われる貧困層の中心をなしたのはユダヤ人です。展示では、これら中東欧地域の貧しいユダヤ人がどのような経緯でその地域を離れ、どのような経路をたどってアントワープの地までたどり着くのか、といういわば移住の前段階の展示を始めます。ポグロムの展示や移住者の肉声による体験談など、当時のユダヤ人の厳しい状況が生々しく描かれます。

 THE TRAIN JOURNEYという展示では、これら移住者が長い列車の旅を経てアントワープにたどり着く様子を描きます。パスポートチェックをくぐり抜ける違法な国境横断など、アントワープに着く前から彼らの長い旅はハードであったようです。

 さて、この様子だと日が暮れそうなので、ここから後はだいぶ端折ります笑。その後の展示では、移民たちのアントワープ滞在中の様子を展示し、次に彼らの乗船中の様子、最後に北米大陸到着後どのような生活を彼らが待っているのか、という展示をしつつ、終わりとなります。

 まとめると、当博物館では、19世紀後半から戦間期までの、ユダヤ系を中心とした貧しい中東欧系移民たちによる一連の移住劇を、彼らの移住の決意から、北米で待ち受ける移民生活までを順を追って展示するという形式になっています。この中でも特に、STAYING IN ANTWERP ないし LIFE ON BOARD の展示は示唆に富んでいたので、そこで感じたことを中心に所感で取り上げてみたいと思います。

 

所感

 STAYING IN ANTWERP  LIFE ON BOARDTHE AMERICAN DREAM、そしてANTWERP TODAYという展示箇所を回るにつれ、以下四点の展示が関心を引きました。

 

① 移民たちの大量流入と衛生環境の悪化は、アントワープに伝染病をもたらした。

Several deadly epidemics swept thorough Antwerp in the 19th century. The city was in full expansion and the residents lived very close to each other in poor hygienic circumstances.

 博物館の施設が健康診断の施設であったことからも分かる通り、アメリカ合衆国ないしカナダは、移民に対して厳格な健康上の条件を課しました。そのため、アントワープにたどり着いたものの北米に移住できないという人たちも当然存在し、その人達はアントワープに滞留することになります。この滞留した移民たちはアントワープの貧困街を形成、街の治安の悪化をもたらし、折からの健康問題とあわせて疫病の発生源となってしまいます。このような劣悪な環境を背景にアントワープは1892年までコレラの流行に悩まされ、現地の人々にとっても移民たちは必ずしも喜ばしい来客というわけではなかったようです(People started viewing emigrants who came from areas where cholera raged with fear and suspicion at the beginnig of the 20th century.)。

 

② 輸送船の中にも、大陸での社会格差はそのまま持ち込まれた。

An ocean steamer was a small contained world, with the same social divides as on land. 

  LIFE ON BOARD の展示では、ダンスや音楽、豪華な食器など、華やかな乗船を楽しむ一等旅客の様子の展示とともに、最貧困層の船旅がどのようなものであったかもあわせて展示しています。展示の中では次のような貧困移民の回顧録が記されていました。

It was not a pleasant trip. We spent the nights on sheetless bunks and most of the days standing in line for food that was ladled out to us as though we were cattle. 

 仕方のないことではありつつも、移民たちがヨーロッパ大陸で夢見た大西洋横断は、依然として過酷な旅であり続けました。

 

北米大陸到着後も、貧しい移民たちの生活は依然厳しかった。

But the American dream was difficult to achieve. The reality proved quite different compared with what they had been told to expect in Europe. [...] Many first-generation immigrants were unable to enjoy the fruits of their hard labour during their lifetime.  

 この点も特に目新しい知識ではありませんでしたが、一連の展示の中で、如何にして移民たちが貧しい東欧から脱出し、アントワープから船出し、厳しい乗船生活を耐え抜いてはるばる北米大陸に到着したのかを知った上でこの展示を見ると、何とも言えない虚しさ*10にとらわれてしまいます。。。

 

④ 今のアントワープの街にもたくさんの移民・外国人が住んでいる。

Today 170 nationalities  call Antwerp home. Some have been here for generations, others have only just arrived. 

 展示では、「今アントワープに住む外国人の声」の展示があり、それぞれの住人がどのような経緯でアントワープに住み、どのような生活を営んでいるかを紹介しています。

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所感

 さて、その中でも特に、①と④の展示は、昨今の移民・難民問題に関連して抱いていた「もやもや」*11を少し解消してくれる気付きを与えたように感じます。そのもやもやとは、ブリュッセルに限らず、ドイツなど、難民の受け入れに対して寛容な立場をとっている国やその人々の寛容さがどこから生まれるのか、というものでした。記憶に新しいベルリンのクリスマスマーケットで起きたテロの後でさえ、メルケル首相はあくまで難民受け入れに対する寛容な立場は崩さないとしているし、2016年3月にブリュッセルで連続爆破テロ事件が起きたことによってベルギーの難民政策が大きく変わったとは聞きません。話は逸れますが、アントワープからブリュッセルへの帰りの電車の中で、相席になった三人の方々は、ベルギー人女性とそのご主人の中国系カナダ人男性、そしてベルギー人女性の偶然顔見知りの「ムハンマド」という名のイスラーム系移民男性の三人でした。そのイスラーム系移民の男性は一言もフランス語*12を話すことができなかったようですが、終始そのベルギー人女性はムハンマドに対して好意的な態度で接します。このようにテロが連続して起きている中であっても、電車で相席になるような一般市民のレベルでさえ、移民に対する寛容な文化が根付いているというのは、大変に驚きでした。

 果たしてこれと同じような寛容さが日本で起こりうるのかと考えたら、たとえそれが東京であっても厳しいのではないでしょうか。日本との比較をしなくても、例えば自分の留学先であるイギリスでもここまで移民に対して寛容になりきれなかったからこそ、EU離脱という選択をかの国民は採ったのだろうと思います。ドイツやベルギーなど、難民の中に紛れこんだテロリストに自国民を大量に殺害され、それでもなお街に溢れかえる難民・移民に対する寛容さはどうして培われたのだろうか、このもやもやとした疑問に対する一つの答えの可能性として、この Red Star Line Museum は示唆的でした。

 結局、アントワープの街やそこに住む人々が、移民の中継港として経験してきた歴史・困難の蓄積は大きなものなのであって、そのように移民という存在が歴史の中で当然に存在し、そして19世紀に移民を通じたペストに苦しめられたように移民が伴う困難も経験してきた街と人々にとって、「難民の受け入れとそれに付随し得るテロ」という昨今の現象に遭遇した時にとる態度も、そのような経験を背景になされるのではないでしょうか。彼らの「寛容さ」の理解の困難には、もしかしたらこのような移民の受け入れの経験の有無にあるのだろうかな、という感想を、この博物館は与えてくれました*13

 

 長くなりましたが、 その他EU議会の展示や先程も少し触れたモード美術館、ブリュッセルマグリット美術館など、ベルギーでは多くの展示物を愉しみました!全ては紹介しきれないので、機会があればその折にでもお話できればと思います!

 

 平成29年も、健やかで実りに満ちた一年となりますように。

 今年一年も頑張ります!

 

*1:お察し笑。

*2:日本人にとって、アントワープは国民的アニメとも言える「フランダースの犬」最大のテーマである聖母大聖堂とルーベンスの絵画が存在する街として有名であり、その絶大な知名度の影にこの移民博物館は埋もれてしまっているのだろう。

*3:聖母大聖堂には日本語のパンフレットがあったがRed Star Line Museumにはもちろんなかった...というかそもそもRed Star Line Museum自体の邦訳すらままならない。以下そのままRed Star Line Museumとする。なおRed Star Lineとは何かについてはブログ本文参照。

*4:中央駅自体も立派で観光地となっている。

*5:ここもすごく良かった!次回は洗練された女性と語りながら見に行きたい。

*6:高校世界史でやった大航海時代アントウェルペンの繁栄が懐かしい。

*7:スイス留学勢と話していて気がついたのだが、イギリスの冬は大陸に比べて圧倒的に暖かい。実際今の時期はロンドンもシェフィールドも気温は東京程度だし、東京のように乾燥もしていない。一方の大陸は氷点下も常である。北大西洋海流と偏西風ありがたすぎる。

*8:ヨーロッパはどこの国もYouth割引が極めて充実している。少子化問題とつなげるわけではないけれど、日本ももっと充実させてくれても良いのではと。

*9:ちなみにブリュッセルのEU議会の展示にはもはや説明書きは付されず、配布されたiphoneのような機具を展示の写真にかざすと自分が使用するEU公用語(この場合英語)での説明が画面に表示されるという変わったシステムだった。これはEU加盟国の全ての言語話者が等しくEU機関にアクセスできるように、というEUの理念に基づく処置のようである。

*10:一応展示の最後には、第一世代以降はアメリカ合衆国の繁栄を享受するようになり、今のアメリカの繁栄も彼らの努力のおかげにある的なことが書いてあった。ここで少し疑問に思ったのは、今の米国の社会階層は、当時19世紀後半から20世紀初頭にかけての社会階層の序列からどれくらいシャッフルされているのだろうかということ。なんだかあまり変わっていなさそうな気もする。果たして本当に貧困層移民の子孫が将来的にそれらの繁栄から利することができるようになったたのかは気になるところ。

*11:「難民問題」などと言っていますが、ニュースなどで得られるような表面的な知識以上のものを持ち合わせていません。移民や難民に関して体系的な考察を行った本に本格的に触れた事があるわけでもないので、もしかしたら至極当然のことを言っていたり、あるいは見当外れなことを言っているかもしれません。なんだか旅行飽きてきて早く勉強しなければという焦りを感じる。。。笑

*12:ベルギーは自分の予想していた以上にフランス語が強かった。ブリュッセルは完全にフランス語圏である。

*13:書いていて色々な反論が自分の中で出てきたので、覚え書き程度に一応言及しておこうかと。ブログを書く中で、当初「発見した!」と思ったことを冷めた目で再検討し、「実は間違ってるのでは... ?」と考えるのはとても教育的作業だけど、興ざめ感半端ないので頑張って擁護したい。けれども、本当にテキトーなのでできればあまり読んで欲しくない、、、
1. アメリカ合衆国の歴史はまさに移民の受け入れの歴史そのものだけれども、トランプを大統領に選ぶその国が果たして経験に裏打ちされた寛容さを持ち合わせているのだろうか?
→移民を受け入れる側もまた移民であるという点でヨーロッパ大陸と区別できそう。
2. ベルギーは良いとして、難民政策で最も寛容とされるドイツはむしろ歴史的には移民の発生源だった国では?それでもこの経験と寛容の関係は当てはまるのか?
→ドイツ国内に歴史的に多く存在した「ユダヤ人」を、長い歴史の中でゲットーに集住させ、ドイツ人と同一化させなかったという点では、移民たるユダヤ人を移民として扱い続けたとも言えるから、ユダヤ人との関係におけるドイツ人の歴史の経験が、ドイツ人にとっての移民に対する経験として理解することができなくもない?